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ティファニーを買へなかつた私が、ピアスで笑はせるまで

ティファニーを買へなかつた私が、ピアスで笑はせるまで エッセイ

「似合はない」と思って泣いたあの日からの話

2007年のある日、私はファミレスのボックス席で、ファッション雜誌のページを見ながら泣いてゐた。

ティファニーの指輪の廣告の、あの澄んだティファニーブルーと、ダイヤの煌めき――所詮ただの印刷でしかないものが、私にはとても眩しくて、遠いものに思へた。

当時、私は正社員で、貯金もあつた。買はうと思へば買へた。しかし、心の中の私が、「そんなの似合ふ譯ないぢやん」「私にティファニー? 釣り合はないよ」と自虐的に笑つてゐたのである。

【過去ログ】買へなかつたティファニー

自己否定のそもそも

今思へば、それはその時突然に湧いた感情ではなかつた。

子供の頃から、「しきみちやんつて何か變だよね」と云はれ、何か失敗すれば「お前つてダメなヤツだよな」と笑われる。

いつの間にか、素直に笑つたり、好きなものを好きと云ふのが怖くなつていく。さう云はれて傷つく事にすつかり慣れた頃には、自分が間違つてゐるのかもしれないと常に思ふ樣になつてしまつたのである。

大人になつても、人竝みに貯金をしてても、見た目を「出來る限り普通」にしてゐても、「私は“正しくない人間”なのだから、ふさはしいものなんて何一つない」―― そんな感覚が、心のどこかに居座つてゐた。

自分最優先で生きること

そんな自己否定の殻を割つたのは、「自分最優先で生きる」と決めた時だつた。

それまで私は、他人の目線を基準にしてゐた。「これを持つとどう思はれるか」「こんな私がこれを好きだと云つたら笑はれるかも」と、過去に受けた言葉や態度が、心の内側でエコーのやうに響いてゐた。

でも、ある日ふと思つたのだ――そんな聲に振り回されてる自分って、何なんだらう。その言葉を吐いた人は、私でなくて所詮は他人だ。それなのに、私自身が未だに、その聲を自分の中に棲まはせて、自由を奪つてゐる。

さう思つたら、急に馬鹿馬鹿しくなつた。何うせ誰にも完全には理解されないなら、自分の人生は自分で決めて、自分の聲を最優先で生きていかうと決めたのだ。

勿論、今でも完璧に自分を好きになれた訣ではないし、「ああーやつぱり自分、變な人だわ」となる瞬間もある。完璧でもないし、變つてゐる自分。それが「私」なのだから、仕方ないなと思へる樣になつた。

昔、ファミレスで泣いてゐた私にも、きつとそんな日が來る。「足りない」ままでも、「似合はない」と思つたままでも、それでも私は、私として生きてゐていいんだ、と。

――因みに、あの日買へなかつたティファニーは、今も買つてはゐない。でも、あの時とは違つて、「欲しければ買つてもいいぢやないか」と思へるやうにはなつた。自分の價値が自分で決められる樣になつたから、別に身につけるのは、ティファニーでなくても良いのだ。

海外通販で變なデザインのピアスを見つけて、友人に「何それ」と笑われる。自分で選んだ結果、狙い通り笑つて貰ふのは、とても、氣分が良い。とても、自分である。

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