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買へなかつたティファニー

tiffany エッセイ

2007年の私の話

当時、私のメンタルは最惡も最惡であつた。仕事は閑職になり、一日暇を持て餘すのを社長に監視される日々。彼氏も居たし、仕事は正社員だし、貯金も300萬程有つた。だが、それらは、何うにも私の心を満たさなかつたのである。

ある日、ファミレスで私は女性向けのファッション雜誌を眺めてゐた。そこには眩しいまでのティファニーブルー、きらびやかなダイヤモンドの廣告が見開きで印刷されてをり、それを見た時に、ふと涙が溢れたのである。ああ、ティファニーなんて買へない、と。

貯金なら幾らでもあつたのに、通販だつてあつた筈なのに、それでもティファニーが買へない、と泣いた。つまらない話である。自分とティファニーが釣り合はないと、手を伸ばす勇氣すら持たず、ただ涙を流した。

さう、あの頃の私は、己の價値を他人の目にしか見いだせなかつたのである。自己評価も低い上に自力でなんとかしようと云ふ氣概もない、つまらない女だつた。

過去の私にかける言葉は、多分技術的に可能だつたとしても、屆かないだらう。逆に、ズタボロのメンタルの過去の私が、今の私をみたら、なんと云ふだらうか。

今の私は彼氏も居ないし、貯金だつて僅かしかないが、實店舖に飛び込んでティファニーのグッズを買ふ事を恐れないし、なにより、買つたティファニーが最初から自分のために作られたかの樣に似合ふ自信がある。

この20年近くの間に、失つたものも多いが、得たものもまた多い。何より、メンタルヘルスの勉強や、縁あつて通ふ事になつたヨガスタジオでのレッスンを行なふ事で、自分が自分である事が怖くなくなつたのは、大きいと思ふ。

あの頃の私は、今の私など信じられないだらう。けれど、私は確かに、分岐を誤らず――少なくとも死なずには濟んだのだ――ここまで來た。それは、「ティファニーを買ふ爲」にではなく、それが「似合ふ」と思へる自分になるために。

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