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皆が泣いた戀愛ソングは、 私の“あるある”じゃなかった

皆が泣いた戀愛ソングは、私の“あるある”じゃなかった エッセイ

「泣ける戀愛ソング」って、そんなに共感できるの?

「共感できるラブソング」「泣ける戀愛ソング特集」――TVでもSNSでも、そんな言葉が踊つてゐる。名曲を作るアーティストや企畫してゐる人には殘念な話かもしれないが、私はさういつた曲で泣いた事がない。

「君が居なくなつてから氣が附いたんだ」
 ラブソングには、よくそんなフレーズが登場する。だが私は、さういつた曲を聽くたびに、どうしても引つかかつてしまふのだ。

――それ、失ふ前に氣附けないといけなかつたんじゃないの?

それができなかつた時点で、それは本當に“戀”だつたのか? と、自分でも少々冷たすぎるかもしれないと感じながらツッコミを入れてしまふ。

そんなに大事な人なのに、その人の存在ではなく、自分が中心の世界にゐる事自體がなんだか「ラブ」ではないのだ。

私の人生で一番劇的な戀を擧げるなら、「交際してゐる人が亡くなつた」事がある。ラブソングで歌はれる悲劇よりも、ずつと現實的かつ、取り返しのつかない別れだつた。

それでも私は、「君が居なくなつてから氣が附いた」などとは思はなかつた。相手が死んでから氣附く前に、もう十分、氣附いてゐたし、充分過ぎる程に、樣々な事を教へて貰つたから。

私には「泣ける戀愛ソング」の“あるある”が分からなかつた。けれど、自分の戀が共感できる歌になるかどうかで、その價値が決まるわけではない。

「歌に泣ける」かどうかではなく、自分がどう愛し、どう別れ、どう思ひ出してゐるか――それだけが、私にとつての戀の“あるある”だ。

あなたにも、あなただけの「ラブ」があれば、それでいいのではないかと、私は思ふ。

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